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『ハイエクの迷宮:方法論的転換問題』

「現代思想」1991.12

 

橋本努

〔公案〕

わたしは、ポパーやハイエクから何を学んだかと問われたときには、しばしば、ポパーからわたしが学んだのは、われわれは自分たちが何について話しているのかを決して知らないということであり、ハイエクからわたしが学んだのは、われわれは自分たちが何をおこなっているのかを決して知らないということであると言って答えることにしている。――W.W.バートリーV

 

 ハイエクの議論は全著作を通じて類いまれなほど一貫しているといわれるが、その核心部にある方法論の生成過程は非常に揺れ動いてきたばかりでなく、さまざまな著作の方法論ならざる文脈の中に埋もれている。まさにハイエクの深みを論じようとすればそれだけ一層迷宮に嵌まるといった状況、事実こうしたこともあって、研究者たちはこれまでハイエクの核心部に果敢と入り込むことを避けてきたのである。

 それでも核心部に秋波を送る者は、ハイエクの見解が師であるミーゼスの公理主義から親友ポパーの反証主義へと移行したことを跡づけており、これが現在の通俗的な了解となっている(*1)。ミーゼスとは、社会を諸個人の行為連関として捉え、「人間は行為する」というアプリオリな命題から論争の余地のない演繹体系を構築することを社会科学の課題として、現代オーストリア学派の基礎を築いた人物である。これに対してポパーは、全く逆に、およそ科学的な営みはすべて推測であって、アプリオリに真なるものを措定することはできないのだから、科学者は真理を求めて大胆な推測をし、そしてこれを反証基準によって受容ないし評価することを提案した。もちろんこうした両者の見解は一枚岩ではなく、論を進める中で修正・追加してゆかねばならないが、大枠で言って、ハイエクはミーゼスからポパーの方法論へ移行したというのなら、ハイエクの独自性はなく、なにもいまさらハイエクの迷宮に入り込む必要もないだろう。しかし本稿の企てには、次のような巨視的問題状況に鑑みて、今日われわれが考慮すべき重要な論点が潜んでいる。

 いわゆる六〇年代に始まる「経済学の危機」論は、現在でも惰性で繰り返されているが、依然として新古典派理論は安泰なままといった状況が続いている。思うにその批判的論点の多くは、その後の新古典派の研究プログラムとなり、意図せざる結果としてこれを強化することになってしまったか、あるいは新古典派批判と市場批判を区別しないで論じたという点で、致命的に劣っていた。マル経、制度学派、その他の異端を問わず、論者の多くは、新古典派を批判することで市場社会を批判できたと思っていたのであるが、そもそも新古典派理論は市場の本質については何も語らない――二〇年代にはじまる社会主義計算論争が明らかにしたように、社会主義でさえ新古典派理論に依拠して計画をしなければならなかった――のだから、こうした批判は市場の本質を認識しようとする思考を決定的に欠如していたと言わざるを得ない。極言すれば、「経済学の危機」における新古典派批判の多くは、いわば新古典派というワラ人形たたきに終始したのである。

 こうした学問状況の中で、新古典派を批判しつつも、市場作用を肯定的に洞察し、かつ体系的に市場秩序論を展開したのは、ハイエク以外にいない。最近ではレギュラシオン派が注目されるが、その基本的アイデアはハイエクのいう自己組織的市場である。従ってもしわれわれが新古典派理論に代替する経済学原論を構築しうるとすれば、それはハイエクの自生的秩序論を抜きにしては不可能であろう。自生的秩序論は、新古典派の力学モデルに抗してシステム論的な枠組みを与えており、グランドセオリーを築くには十分な資質を備えている。もちろん、社会主義批判が不毛になりつつある現在、秩序の自生性を追認するだけでは無意味であって、われわれはハイエクの議論を現在の問題状況との兼ね合いで再構築し直さねばならないだろう。その際われわれは、ハイエクが彼の問題状況の中でどのように自生的秩序論を構築したかを吟味することによって、その指針を手にすることができるのである。

 本稿の課題は、ハイエクが自生的秩序の問題をいかにして主題化するに至ったかについて、これを広義の方法論的見地から編年的に跡づけつつ、再構成を試みることにある。そうすることによってわれわれはまた、しばしばありがちな思想内容の欠如した方法論議の不毛性から脱却し、より豊かで社会科学の基礎論的性格をもった方法論を構築する可能性を――ハイエクと共に――模索することができるだろう。その際、本稿では、ハイエクの方法論が自生的秩序の認識へと向けられていた点で、ミーゼスやポパーにはない独自性をもっているということを示したい。議論はとりわけミーゼスとの関係が主流となるが、順序としては、まず最初に背景となるハイエクの個人史を跡づけることで以下の議論にパースペクティヴを与え、それ以降は方法論上の問題領域毎に各章をあてることにして、最後にこれらを総括するという構成を採ることにする。

 

1.背景=見取り図

 若きハイエクが影響を受けた二〇年代におけるウィーンの知的環境は、さまざまな点で極めて刺激的な転換期を迎えていた。一方では、統一科学を目指す論理実証主義(ウィーン学団)の勃興があり、三〇年代にはポパーの反証主義が登場して、この分野の科学方法論議は世界的に沸くことになる。他方では、オーストリア学派経済学において、現在では古典的な名著となったミーゼスの『貨幣及び流通手段の理論』(1924)が現れて、議論を呼んだ。さらにミーゼスは、二〇年代後半には従来の経済学を人間行為の学に拡張すべく、社会科学方法論の問題を探求してゆく。すでに触れたように、これが現代オーストリア学派の基礎となるのである。

 こうした状況の中で、ハイエクの方法論上の見解はいかに揺れ動いてきたのだろうか。彼の業績は、ミーゼスの理論経済学を発展させることから始まるが、この章では彼が自生的秩序の問題系へと転換してゆく際に、その背景をなす諸要因を探り出してみたい。

 まず、大学時代のハイエクは、主に法律学と経済学を学ぶ傍ら心理学に関する論文も書いており、こうした広範な問題関心が後の「転換」を容易にしたと考えられる。しかしこの時期、ハイエクはミーゼスから経済学を学ばなかったどころか、彼の講義にも出席していなかった。ハイエクはある折りに、当時は法律の勉強に追われていたからだと弁明しているが[g]、実はフェビアン主義という一種の社会主義に対して共感を抱いていたために、ミーゼスを避けて、ヴィーザーの下で経済学を研究していたのである[i]

 二一年、大学を卒業したハイエクは、第一次世界大戦後の不況に苦しんでいたオーストリアにおいて政府に求職する。そして官吏の仕事を続ける傍ら、今度は一転してミーゼスのゼミに出席するようになるのである。これは当時ミーゼスのゼミが最も重要視されていたからであろうか。ともあれここで注意したいのは、社会主義計算論争の口火を切ったといわれるミーゼスの『共同経済』(1922)の影響力である。これを読んで、多感な年頃であったハイエクは、フェビアン社会主義が誤りであると説得させられたというのだから、ミーゼスとの出会いは彼にとって最も大きな思想上の転換であったにちがいない。以降、ハイエクはミーゼスの下で経済学に関する諸論文を発表し、二七年にはミーゼスの取り計らいもあって、二八歳の若さで景気循環研究所の初代所長に就任する。そしてミーゼスとの直接的で親密な関係は、彼が三一年にロンドン大学に移るまで続くのである。

 しかしこうしたハイエク=ミーゼス癒着観は誇張されるべきではないだろう。例の研究所は、経済学者の職を確保するために、わずか三人で開業したものにすぎなかったのだし、またハイエクは独自の知的拠点として、ミーゼスのゼミとは別に「ガイストクライス」なるゼミを組織し、広範な文化的諸問題を研究しているからである[3]。このゼミでは、文学、音楽、美術、歴史、政治哲学など、網羅的に主題が取り上げられている。それゆえ、ウィーン時代のハイエクは、ミーゼスに癒着していたのではなく、すでに体系的な社会科学を築く契機を胚胎していたと見るべきであろう。

 ところでロンドンに移ったハイエクは、一夜にして、当時の重要な経済学者達から絶大な支持を獲得する。二六年から三六年までロンドン大学にいた、かのJ・ヒックスは、彼の滞在期間を前ハイエク期とハイエク期に二分しているといったほどである[6]。彼はまた、三〇年代における最も完全で正確な経済分析史が書かれるようになるとすれば、そのドラマの主人公はハイエク教授であろうと述べている[5]。それは、ハイエクがイギリスの経済学界において成功を博したにもかかわらず、三〇年代後半には早くもケインズ経済学の陰に隠れるようになってしまったからであろう。ほぼ同時に出版されたケインズの『貨幣論』とハイエクの『価格と生産』は、当時の学界を二分するほどの論争を巻き起こしたものの、三六年にケインズの『一般理論』が出版されると、論争はケインズの側に軍配が上がったと見なされるようになる。同年代の終わり頃、ハイエクは雑誌『エコノミカ』の編集者を続けてはいたものの、その風貌は孤独であったという。

 以上のような経緯から、ハイエクは経済哲学へと転換していくのだが、ここでさらに、彼の経済理論が主流から遠ざかっていった要因について触れておこう。総じてオーストリア学派は、数学的・統計的手法に対して低い評価を与えていたということが、経済学における実証主義の趨勢との間に深い溝をあけてしまったと考えられる。前者の流れにあったハイエク自身、数学的表現は補助的なものに留まるとして、『資本の純粋理論』(1941)の中で「数学的道具」を使いこなす力の限界を認めている。またB・コールドウェルによれば、「三〇年代後半におけるほとんどの経済学者にとって、次のような見解はありふれた言い草であった。すなわち、オーストリア学派の廃れた思考言語の理論(verbal theory)は反駁されてしまった、と。……もし世界が生きて存続しうるとすれば、何らかの形で合理的な社会計画が必要である。ケインジアンの分析は、そのような合理的計画に対する第一歩を与えるものであるように思われた」[2:521]

 ハイエクは当初、社会を合理的に変革しうるとするこうした設計主義的思考に対して、これを理論経済学の地平において論駁しうるものと考えていたようである。だが次第に、とりわけ社会主義計算論争を通じて、設計的な思考方法そのものを批判するようになり、四〇年代には一般に哲学的と呼ばれる問題へと関心を移行して行く。

 さて、これまでの跡づけによって、われわれは本稿の大まかな見取り図を手にしたことになる。これから先、われわれは方法の迷宮に足を踏み入れてゆくが、まずは「科学理論の手続き」から辿ることにしよう。

 

2.科学理論の手続き

 すでに述べたように、当時ウィーンでは、一方で論理実証主義が勃興し、他方でミーゼスによる新たな社会科学方法論が形成されていた。こうした中で、科学における命題の性格とテストをめぐる議論について、ハイエクの見解はいかに揺れ動いていったのか。本章では、まずミーゼスとポパーの主張を整理したうえで、ハイエクの手続きを跡づけることにしよう。

 統一科学を掲げる論理実証主義の運動は、当初社会科学とあまり触れ合うことがなかった。従って二〇年代後半にミーゼスが方法論に関する論文を公刊する際には、論理実証主義をあまり意識せずに、歴史主義と実証主義に共通した方法、すなわち個別的経験から普遍法則を引き出すという帰納主義的方法を批判することができた。この帰納主義批判は、また初期の素朴な論理実証主義にも当てはまるのであるが、しかしウィーン学団とポパーは、この限りではミーゼスと同じ立場に立っているのであり、彼らの知的分岐点はここから先に現れる。まず、ウィーン学団は提出された理論の意味論的検証を問題にするのに対して、ポパーは経験科学の境界設定基準としての反証可能性を提案する。両者に共通するのは、命題を分析的/綜合的に区別しうること、そして自然科学と社会科学の方法論は同一であること、この二つである。これに対してミーゼスは、社会科学の方法が自然科学のそれとは異なることを強調し、自らは「人間は行為する」というアプリオリに真であり、かつ経験的に意味がある(従って分析的/綜合的の区別がない)命題から「論争の余地のない演繹体系」を築くことを主張したのである。

 検証/反証を受け入れないミーゼスの方法は、当時の実証主義的な時代趨勢の中ではほとんど影響力を持ちえなかったものの、科学の境界設定を疑問視する今日の方法論議からすれば、彼の主張は必ずしもドグマ的とは言えないだろう。ミーゼスは、@社会現象は複雑であり、実験ができない、A知識の数量化が困難である、B行為を起こさせる要因に規則性がない、という理由から、社会科学においては様々な理論が検証/反証例をともに多くもつのであって、これによって理論選択はできないと主張したのである。これに対してポパーは、@社会科学においても実験が可能である、A「ゼロ方法」によって人間行動の合理性を計測できる、B科学はすべて仮説演繹法である、とする点でミーゼスとは正反対の主張をする。しかし注意すべきは、通俗的に理解されているようなポパー=反証主義一元論者というのは誤りであって、社会科学に関する限り、彼は新古典派の限界効用理論を一般化して、「状況の論理」や「ゼロ方法」なるものを主張したということである[4]。このことは、ポパー自身は一元論を主張するにもかかわらず、彼の社会科学方法論をよく吟味すれば、それは新古典派流の反証不可能な合理性原理をハード・コアに据えることによって、この限りではミーゼスのアプリオリズムとも同類であることを意味する。従って両者を分かつのは、上記に加えて、基礎命題ないし合理性原理が真偽に関わるかどうかということと、検証/反証の意義をどのように捉えるのかということ、この二点が重要となる。

 さて、ハイエクの方法を跡づけるにあたって、われわれはまず次のような回想に注目しよう。

 

 私は……最初は、私の問題関心に対して、普遍的な妥当性をもった自然科学の方法に揺るぎない確信をもって接近したということを釈明すべきであろう。私の最初の技術的訓練は、用語の狭い意味において非常に科学的であったばかりでなく、私が哲学や科学において受けたわずかな訓練は、完全にエルンスト・マッハと後期論理実証主義の影響下にあった。[V:57-8]

 

 

 こうした告白が正しいとすれば、彼はミーゼスが方法論文を提出する以前に、論理実証主義の洗礼を受けていたことになろう。しかしハイエクは、初期の素朴な論理実証主義における帰納論理を受け入れたわけではなかった。というのも、二三年に渡米したハイエクは、そこで目にした制度派経済学に対して、次のように批判しているからである。すなわち、個別的現象の統計的研究から帰納的に一般理論を打ち立てようとする制度派の方法は、「最近そこで最前線になってきた客観的(行動主義的)心理学の影響の下で、経済活動の理解(Verstehen)を目的とした純理論的な研究からますます離れた内容に変わってしまった」[a:27]、と。ハイエクの関心はあくまで理論経済学にあり、彼は実証研究の意義を認めつつも、まずは景気循環論において、これを「仮説的なシステム」としての均衡理論の内部で「論争の余地のない演繹体系」に再構築しようとしていたのであった[T:48,94]

 従ってまたミーゼスとの差異も、明白である。ミーゼスは社会科学の基本的な命題が真でなければならないとするが、ハイエクはこれを仮説にすぎないとする。またミーゼスは実証研究にほとんど価値を与えなかったが、ハイエクは「それとは反対で、景気循環論は、それが対象とする現象の現実の推移を正確に計測することを通して、完全な実際上の価値を獲得できるということは疑問の余地がない。」「……問題の解決は、基礎的現象の実証的説明を伴って初めて成功し得るのである」と述べている[T:32,29]。それゆえウィーン期ハイエクの方法論を明確にするなら、それは“分析的命題としての均衡理論に貨幣を導入することによって、綜合的で「検証可能な仮説」としての景気循環論を構築すること”であると、解釈することができよう。

 ところが三五年の『集産主義的経済計画』では、ハイエクは一転してミーゼスの立場を踏襲する。「自然科学では、帰納的一般化の結果である何らかの仮説から始まるのに対して、社会科学では(論争の可能性を超えて)知られている諸要素を、直接観察することのできない複雑現象における規則性を発見するために用いるということが本質的な差異である」[V:126]。こうしてハイエクは社会科学を経験的演繹科学と呼ぶが、ここで経験とは、「共通経験の一部、すなわちわれわれの思考材料の一部」であり、理論を構成するための諸要素のことであるから、以前にハイエクが経験的研究と呼んだ、理論の検証/反証過程とは全く異なる。またハイエクはここで理論のテストについては何も述べていないことから、M・ロスバードが言うように、これはミーゼスの方法を「明確に記述した」と考えるのが妥当であろう[25]。ハイエクはここにおいて論理実証主義からミーゼスの方法へと転換したのである。

 しかし三五年はポパーの『探求の論理』が出版された年でもあり、ハイエクはこの時期に、ポパーのいう仮説演繹法が自己のそれと類似しているものの、それよりずっと満足の行くものであることに気づいたという。そして翌年、ハイエクはポパーをロンドン大学の自己のゼミに招いて『歴史主義の貧困』をレビューする機会を与えており、二人の関係はこの頃から親密になっていったようである。こうしてハイエクは、その年の十一月に行った講演「経済学と知識」(以下EKと記す)では、翻って、ミーゼス流のアプリオリズムを批判する実証主義者となって現れる。すなわち彼は、均衡論は経験内容を含まないトートロジーであって、均衡への傾向が存在するかどうかはアプリオリには言えず、これは原理的に検証/反証可能な命題を構成すると主張するに至るのである。とはいえ、ここでハイエクは@検証と反証を区別していない、A「反証」という用語は最初の頁の註において一回しか使われてない、B反証条件を提出していない、ということから、彼の主張はむしろ、ポパーとは対称的な後期論理実証主義の「仮説演繹検証法」に近いと言えるだろう。しかしこの際注意すべきは、トートロジーとしての均衡と、経験的命題の関係である。ハイエクにおいては、この関係が分析的/綜合的の区別に対応して、これを組み合わせて一般理論が成立するというのではなく(*2)、後者はつねに補助的な役割しか持たず、均衡理論は裸のまま、検証も反証もされないアプリオリなものとして維持されることになってしまっている。つまりハイエクは、EKにおいて、アプリオリな均衡論の批判に必ずしも成功してはいないのである。

 四〇年代になると、ハイエクは、均衡理論そのものを批判すると同時に論理実証主義に対しても批判的になり、ミーゼスの方法を再度見直すようになる。彼は四〇年に出版されたミーゼスの『国民経済』に対する書評の中で、こう述べている。

 

  ……近代科学の発展の趨勢にすべて対抗するような見解をもったミーゼス教授と共に非難を受けるという危険を冒しても、書評家は次のように告白せざるをえない。それは主要な点において、ミーゼス教授の孤独な発言は一般に受け入れられている諸見解よりもかなり真実に近いように思われるというということである。[d:127]

 

 さらにハイエクの論文「社会科学における事実」(1942)は、論理実証主義批判として読むことができる。すなわち社会科学における事実は、客観的なデータではなく、常に人々が用いる目的論的概念に留まるがゆえに、「社会科学の理論はそれ自体決して事実を参照することによって検証したり反証したりされはしない。われわれが検証することができ、そしてしなければならないことはすべて、個々のケースにおけるわれわれの想定の存在である」[V:73]。こうした考察はまた、前述したEKの難点に答えたと言えるだろう。つまり彼は、自ら企てた検証/反証可能な一般均衡理論というものが、不可能であることを明確にしたのである。またハイエクはここで検証それ自体にも疑問を投げかけていることから、総じてミーゼスの方法を受け入れていたのだろう。しかしその後ハイエクは、『感覚秩序』(1952)において反証基準を認めることから、四〇年代後半にはまたもや一転して、ポパーに近づくことになる。とはいえ六〇年代以降はポパーとの間に一定の距離が読み取れる。……

 以上、われわれはハイエクの理論手続きが非常に揺れ動いてきたことを跡づけてきたが、こうした背景には彼の理論経済学における格闘があるのだろう。つまり、ハイエクは理論経済学において、一度は実証的な結果を伴って成功したからこそ、その後の実証データが次第に得られなくなる時期の検証の問題に悩まされることになったと推測されるのである。結局こうしたハイエクの格闘が身をもって示した方法論とは、およそ経済学の一般理論を反証可能なものにすることは無理であろう、という消極的なことなのかもしれない。しかしこの狭義の方法論領域は、自らの新理論が反証不可能であるにせよ、なおかつドグマに陥らない独自性をもつためには、格闘すべき必須の場として、その存在意義は今日においても大きいのではないだろうか。

 

3.市場と知識

 ハイエクが提起した「市場における知識の利用」という問題は、今日の情報理論の先駆的業績と目されていると同時に、彼の著作の中でも最も独創的な領域の一つであると言われている。また彼はこの問題を、「一定の方法論的問題と密接に関連している」[V:78]としており、そこには、未開拓ではあるが、彼独自の新たな方法論領域が措定されているのである。ハイエクは知識の探求において、何を問題にしたのだろうか。そして、その方法論的独自性とは何か。もっとも彼の見解は一定の変遷をたどる以上、われわれはこれを跡づけねばならないが、さしあたって問題の端緒は、彼の理論経済学の中に求めることができよう。

 市場における「知識」という言葉によって、それが諸個人の需給に関するデータを意味するのであれば、知識分散という事実を説明しようとしたのはハイエクが初めてではない。というのも、完全情報を仮定するワルラス流の価格理論でさえ、具体的な説明となればオークショナーが分散する需給データを調整するとしたのだし、またミーゼスはもっと現実的に、行為類型としての企業家が調整するとしているからである。そして初期のハイエクも、まずはこのミーゼスの説明を受け入れて、次のように述べている。

 

  撹乱的な貨幣的影響力が作用していない間は、需要あるいは生産条件の諸変化から生ずると期待する価格は、企業家によって多かれ少なかれ均衡価格に一致すると仮定しなければならない。というのは、……企業家は一般に、生産条件や市場についての知識から、これらの変化が起こった後に支配する価格を予測しうる立場にいるからである。[T:69]

 

 すなわち均衡が達成されるのは、オークショナーが分散するすべての情報を集計してもっているからではなく、類型としての企業家が、不完全な知識を用いつつも能動的に将来の均衡価格を予測して行為しているからである。ハイエクはさらにここから、景気循環の発生を、「交換経済においては、生産は価格によって支配され、各生産者が全経済過程を知っているかどうかには関係ないのだから、生産の歪み(景気変動)が起こるのは価格形成自体が撹乱される場合」[T:85]、すなわち貨幣量の追加的増加がある場合だけであると展開した(*3)。つまり、まず知識が分散した状況の中で企業家が均衡状態を生み出すと想定し、そこに追加的な貨幣が加わるなら、それは企業家を撹乱するシグナルとなって「均衡への傾向を破る」としたのだった。B・ローズビー[16]が指摘するように、ハイエクのこうした方法は、新古典派に比べて「無知という状況にはよりふさわしい」と言えるだろう。

 ところでこの知識の問題に関する限り、EK論文はこれまでのアイディアの延長線上にある。すなわち均衡を撹乱する要因は、追加的貨幣に限らず、「人々がそこにおいて関連した知識を手に入れるであろうような諸条件と過程」[V:48]のすべてに関わるがゆえに、知識の問題は経済学一般の問題になるのである。

 しかしこのように問題を一般化すると、当然、行為類型としての企業家はどのように知識を獲得するのか、という問題が生じよう。すべての知識獲得の仕方を経験的な問題にするのであれば、これまでのように企業家の予測なら何であれアプリオリに均衡を達成する、というわけにはいかない。そこでハイエクは、EKでは「均衡を必ず達成する企業家」という行為類型を説明から排除する。そして新たに均衡条件を「データの変化に対する諸個人の期待の一致」として、均衡が達成されるかどうかは知識との兼ね合いで、その都度経験的に「事後的に」判断されるとしたのだった[V:39-41]。こうした見解はまた、動学的均衡理論の枠組みを明確にしたといえるだろう。さらに彼は、均衡に必要な知識がどのようなものか、また個人はその知識をいかに獲得するのかという問題が、すぐれて「経済学の中心問題」であると主張するに至る。

 われわれは、このようにハイエクが知識の問題を一般化するに至った要因を、社会主義計算論争に見いだせるだろう。最近ではこの論争の口火を切ったミーゼスの主張を積極的に評価する動きもあるが、歴史的に言えば、合理的な経済計算は現実の貨幣なしではできないというミーゼスの問題提起は、三十年代に入って、市場社会主義者達の提案するシャドウ・プライスを使用した競争的解決によって、形式論理的には反駁されたように見なされる。問題が、所与の知識の下でこれをいかに合理的に利用するかということであれば、それは現実の市場が不完全な解答しか与えないようなコンピューター計算の問題となるだろう。しかしハイエクによれば、「論理的に理解しうる手続きによって価格を決定することが、このような決定が可能な解ではないとする主張を無効にする、という風に論じることは、単に問題の本当の性質を認識していないということを証明するだけである」。つまり、論理的に理解するために、「一定範囲の技術的知識が『所与』であるという仮定を含んだ」均衡分析は、方法論的に言って、市場の真の機能を理解しえないのである[V:153-4]。問題の本質は、できあいの形では存在していないような「具体的な知識の本性と量」にあって、その場合、こうした知識を諸個人がどのように利用・獲得して経済活動をしているのかという問題が、市場機能の理解にとって重要性を帯びてくる。

 こうした背景から、EKでは知識を所与とせずに、諸個人の期待の一致をもって均衡を再定義するというアイディアが提出されたのだが、しかしL・ラハマンによれば、ハイエクがこの講演で知識獲得の問題が経済学の中心問題であると主張した時、聴衆(ロンドンの著名な経済学者たち)の反応は芳しくなく、懐疑的なムードであったという[14]。ここで注意すべき批判を挙げると、@ハイエクは期待の多様性の原因と結果について見落としたということ[13]、Aハイエクは「不均衡価格が、分散した知識に関するハイエクの諸問題を解く場合にどのような役割を果たすのかということを明確にしていない」[10]ということが指摘されている。

 @においてラハマンは、期待の多様性によって各人の認識の主観性を強調するのであるが、しかしハイエクはここで問題となる知識のすべてが予見(foresight)と同一であるとした上で問題を立てていることから、ラハマンのいう期待の多様性は、ハイエクのいう知識の多様性に還元して解決することができるだろう。ところがAの批判に答えるには、多少の迂回をしてでも、次のようにハイエクを読み込む必要がある。

 EKにおける均衡概念が「諸個人の期待の一致」であることはすでに述べたが、われわれは同論文の中に、こうした理論経済学の地平には包摂されないような、もう一つの均衡概念を読み取ることができる。すなわち、決定論的な力学モデルに比した従来の均衡概念に対して、生命系等のアナロジーで捉えられた、「非平衡定常系」としての均衡概念がそれである。ハイエクは、従来の「均衡分析は知識における変化の意義について、実際何も語ることができない」[V:55]と批判して、人間は過ちから学ぶ存在であること、知識は常に変動的で、時間的に可逆的ではありえないことなどを強調するが、そもそも知識が不完全であれば、彼のいう期待の一致としての均衡が完全に達成されることも、現実には不可能であろう。人間が誤りうる存在であるという前提から出発するなら、現実において「われわれはなぜたいていは正しくありえているのかについて、まず説明しなければならない。」[V:34]換言すれば、諸個人の経済活動は完全な均衡を達成しえないにもかかわらず、なぜ安定的な状態を維持しうるのか、これを説明することのほうが先決なのである。ハイエクが提起したこのような問題は、さまざまなゆらぎをはらみつつも、マクロ的構造の安定性を保つような系=「非平衡定常系」という観点を先駆的に獲得しているといえよう。

 以上のような議論から、Aの批判が問題にする不均衡価格とは、「非平衡定常系」としての市場においては通常の価格であることになり、問題は次のように立て直すことができる。すなわち、現実の市場においては知識が分散しているだけでなく、価格はすべて不均衡であるが、にもかかわらず、なぜ通常は市場が安定的に維持されているのか。あるいはなぜ不均衡が累積しないのか。またその時、諸個人はどのように知識を獲得しているのか。

 こうした問題にハイエクが一定の解答を与えたとすれば、それは「競争の意味」(1946)においてであろう。彼はここで、現実の競争の認識を欠いた新古典派の均衡理論を批判しつつ、競争とは「本質的に意見の形成過程」であり、「情報を広めることによって経済システムの統一性と連関性を作り出す」ような作用であると述べている[V:106]。つまり、競争は、市場が、不均衡状態においてそれが十分に機能しない場合でも、各人の期待を調整し、かつ不均衡を均衡へと導くような作用を本性として内包しているのである。件の問題に答えて言えば、市場とは、まず空間的に見れば、「各人の局限された個々の視野が数多くの媒介を通して、関係ある情報がすべての人に伝達されるのに十分なだけ重なり合っている」[V:86]ようなゆるいネットワークである。そしてその中で、時間軸における競争作用が絶えず知識の流れを調整するからこそ、市場全体は安定的に維持されうるということになる。その場合、諸個人は全体の知識について無知であるにしても、この競争作用に導かれることによって、通常は将来の均衡価格についての予測を、安定的に形成することができるのである(*5)

 ところで留意すべきは、ハイエクはEKにおける知識獲得の問題から、四〇年代には「人々の間に分散している知識を利用する最良の方法は何かという問題」[V:78-9]へと、課題をずらしている点である。すなわち、前者は経験的な事実問題であるのに対して、後者は均衡理論を離れて、分散した知識を中央当局に集中させて利用すべきか、それとも市場において各人に自由に利用させるべきかという、経済体制の規範的問題として提起されているからである。そしてハイエクは、市場の効率性を主張すべく、さらに次のように問題を立て直して、これが「すべての社会科学の中心的理論問題を構成する」としている。

 

  問題はまさに、資源の利用の範囲をだれか一人の人の管理能力を超えて、いかにして拡大するかであること、そしてそれゆえいかにして意識的管理の必要を省くか、そしていかにして各人に彼らのなすべきことを誰かが告げる必要なしに、望ましいことをさせる誘因を与えるのか、であることを思い起こすべきである。[V:87-8]

 

 われわれの関心からすれば、ハイエクの提起した課題は、当時の経済学者達が科学的知識ないし統計データを重視するあまり、時と場所の特殊な状況についての知識=局所的知識を軽視していた状況に対する批判を含んでいたということが重要であろう。社会科学が科学的知識のみを扱うのであれば、市場社会の真の認識には至らないばかりか、規範的な問題を考察することはできない。すでに触れたように、このことは社会主義計算論争が明らかにしたところである。ハイエクは局所的知識(とその暗黙知的性格)が、「経済像全体を構成する少変化」であることを見て取るが[V:91]、その場合、一方で新古典派の悪しき科学主義を批判しつつも、他方では、“全体については無知でありながらも、局所的知識を用いて社会環境に適応する個人”を基礎にして、システム論的に、かつ規範的に市場を考察する視点を獲得しているのである。

 以上、われわれはハイエクの知識論を跡づけてきたが、そこには一貫して、社会全体については無知である個人がおかれている。要約すれば、景気循環が生じるのは、諸個人が追加的な貨幣の作用に無知であるからであり、また市場機能の真の認識も、無知な個人の具体的な経済活動を基礎にしなければならない。さらに市場システムが他のシステムより優れているのも、個人が無知であるからこそ、擁護しうることになる。

 

4.アプリオリと主観主義

 方法論におけるミーゼスとハイエクの異同を明らかにする上で最も困難を伴うのは、彼らの用いる「アプリオリ」と「主観」という概念をどのように理解するか、ということであろう。とりわけミーゼスはアプリオリという概念に多様な意味づけをしていることから、彼の方法論は多くの批判と誤解を招いており、それゆえ二人の異同も明らかにされていないのである。本章では、こうした困難を明確に整理することによって、ハイエクの方法が自生的秩序の問題に関心をよせる点で、ミーゼスのそれとは大きく異なるということを示したい。

 まずミーゼスはアプリオリという言葉によって、形而上学的な意味を持たせなかったことを確認しておこう。彼はあくまで科学方法論として、アプリオリズムを採用したのである。しかし私の解釈では、彼のアプリオリ概念はさらに五つに分類されることから、以下でこれらを順にハイエクと比較しつつ、吟味していくことにしたい。

 @ 論理の出発点として、「人間は行為する」というアプリオリに真な命題をおくこと。ミーゼスが関心をもつ領域は、人間が目的―手段のカテゴリーにおいて合理的・意識的に行為するような次元=「目的の領域」であり、自然科学や行動主義の領域とは区別される。そこでは意志決定行為と合理性は互いに定義しあっており、およそ行為と呼べるものはすべて合理的なのだから、これに対立する概念は反応行動であって、非合理的な行為というのは形容矛盾となる。従って行為結果を見て事後的に「これは非合理的だった」と判断するような基準は、ミーゼスの中にはない。もしミーゼスのいう行為者(ホモ・アーゲンス)が誤りを犯すとすれば、それはコストが割高すぎて手段を適切に選ぶだけの情報が得られなかったのだ、と説明する他ないのである。ともあれミーゼスのこうした企ては、近代経済学の方法的基礎として、現在でも一般に用いられている手法である。これに対してハイエクは、後に、ミーゼスのいう交換経済(カタラクティクス)をカタラクシーと言い換えることで自らの問題関心を明確にするが、その独自の意味合いは、すでに講演「経済的思考の趨勢」(1933)において、次のように与えられている。

 

  諸個人の自生的相互作用は、彼らの諸行為の意図的な対象ではなくて、そこにおいてあらゆる部分が全体の存続のための必要な機能を遂行するような有機体を生み出しうる。……(そして)この有機体を認識することが、そこに経済学の主要な問題があるということを認識することなのである。[b :130]

 つまりハイエクがミーゼスに与さないのは、「制度は……完全な人間行為の結果という意味ではあっても、それは……行為の意図的産物ではない」[f:148]以上、この制度=自生的秩序を説明するには、人間をミーゼスのいうホモ・アーゲンスとしてだけでなく、それと同程度に「ルールに従う動物」として規定する必要があるからである。およそ人間は合理的に行為しうるにしても、その合理性には限界があるのであって、他方で誰もその根拠が十分よく分からないような一定のルールに従うということがなければ、諸個人の行為連関全体を維持することはできないであろう。ハイエクによれば、われわれはすべての行為計画を合理的に考えることはでないという意味で無知であるが、しかしこの本来的な無知性こそがルールを自生的に発展させ、また人間をしてルールに従わしめるのである。

 A 経験に先立って理論をあてがうという、認識論上のアプリオリズム。ミーゼスがこれを主張したのは、科学は理論を中立的な事実の蓄積から帰納的に組み立てると思われていたような状況においてであったが、今日ではこれは通念となっている。ハイエクもこれに異論はなく、知識は認識の網のかけ方によって選択されているとしている[V:63]

 B Aより、理論は論理的に歴史に先立つという意味でのアプリオリズム。ミーゼスは、歴史的に固有なものについて理解するという歴史主義の方法が、認識論的にも、主観主義の立場からも正当化されえないとしており、ハイエクはこれを踏襲して一層明確な説明を与えている。すなわち第一に、認識論的に言えば、われわれは個別的事象に対して、これを一般的なカテゴリーを通して捉える以上、「様々な時代に応じた様々な理論というものはありえない」[f:138]。第二に、意識は一定の普遍的思惟のカテゴリーを介してのみ理解可能であるという主観主義の立場からすれば、全体の状況に関する知識から「人間の意識が移り変わる際の法則」を認識しようとする歴史主義の方法は、「意識は物理的事実と同様、観察しうる一つの対象であるという誤った信念の直接的産物なのである」[f :133,136]

 C 演繹のアプリオリな推論と、これを成立させる(前述した)普遍的思惟のカテゴリー。この点においてミーゼスは新カント派の流れを汲んでいるが、しかし彼の場合、アプリオリな公理体系に理論的価値を置くものの、厳密なアプリオリ性を主張するのではなく、例えば時間概念は「経験によって打ち立てられるのであって、アプリオリではない」としている[25:24-5]

 D 理論はテストによって反駁されないということ。ミーゼスがCの厳密なアプリオリを維持せずにテストを無効とするのは、われわれの認識が「共通の経験」(ヴィーザー)ないし「相互主観的意味の構造」(シュッツ)を前提としており、この構造が理論に正当な根拠を与えるからである。この点でミーゼスとハイエクは一致しており、両者は客観的な観察によって行為を理解しようとする行動主義に抗して、自らは「内観」による行為の意味理解を目標とし、これを主観主義と呼んだのであった(*7)。従ってここでいう主観主義は、相互主観性と対立するものではない。

 しかし両者を分かつのは、相互主観的意味の構造という場合に、ミーゼスはもっぱら観察者の普遍的・演繹的論理性をもった抽象的知識の構造を問題にするのに対して、ハイエクはまず当事者のあいまいな意味構造を問題にするという点にある。ハイエクによれば、観察者は当事者の主観的意味から理論を構成する以上、社会科学は「あらゆる知識が断片的で不完全であるという基本的事実の一つから出発しなくてはならない」[f:50]。従って観察者のなしうることは、当事者の通俗的な相互主観的意味の構造を改善・変更することによって理解可能な関係を構成する以外になく、ミーゼスのいうように真の普遍的論理性を要求することは不可能なのである。総じて相互主観的意味という場合、その用語がとりわけミーゼスの言うような普遍性と演繹性をもつのであれば、いかにその基礎が主観主義であれ、それは同時に操作性を備えることによって、容易に実証主義的ないし客観主義的研究プログラムを許容してしまうといったパラドックスが存在する。だがハイエクは概念の曖昧性を強調することで、そうしたパラドックスをうまく回避していると言えよう。ある意味でハイエクがアプリオリに想定するのは、無知な個人のもち得る粗末な知識であり、無知という点では学的観察者もこれを謙虚に受けとめざるをえないのである。

 

5.方法論的個人主義と構成的方法

 ハイエクは「科学主義」という言葉によって、自然科学の方法を無批判に社会科学に持ち込むといった当時の支配的な方法的態度を批判したが、そのとき彼が自己の方法論の要諦としたのが、方法論的個人主義と構成的方法であった。しかしこれらの用語の意味は必ずしも明確ではなく、またその後のハイエクはこれらを用いずに、総じてシステム論的な見解へと移ってしまうことから、これをどう評価すべきか、件の方法論議がはらむ問題は大きいと言わざるをえない。われわれとしては、初期のハイエクがこれらの用語によって言わんとしたことが、後に詳しく論じられるようになる自生的秩序の問題とどのように関係するのか、ということを問わねばならないだろう。本章では、これらの用語を自生的秩序論へ向けての過渡期的な説明道具として捉え、解釈を試みたい。

 いわゆる方法論的個人主義とは、合理的経済人から出発してそこから市場全体の需給などの全体概念を引き出すような手法をいうが、この際、全体(総需要)は部分(各人の需要)に還元可能であり、この意味で部分は創発特性(emergent property)をもたないとされる。こうした素朴な方法論的個人主義は、すでに理論経済学の内部でミーゼスとハイエクによって批判されているのだが(*8)、ここで重要なのは、彼らの次のような批判である。すなわち、狭義の経済学を離れて行為分析一般を射程に入れれば、部分としての個人はすでに社会性をもっており、分析によってここから様々な創発特性を引き出すことができる。

 後者について、これを全体概念から出発する歴史主義ないし集団主義的方法と比べるなら、両者が部分=個人の優位性を擁護する論拠は、次の三つに分けられるだろう。(a)思考し、行為するのは社会そのものではなくて、諸個人であるという存在論的個人主義。(b)個人の行為のみがわれわれに直接知られているという、認識論上の確実性。(c)外的世界からの刺激によって人間の行為がどのように規定されているのかを、科学的に解明するのは困難であるということ。ハイエクによれば、「物理的過程によって精神的過程を説明する問題は、社会科学の問題とは全然別であって、それは生理学的心理学の問題である」[f :88]。それゆえ社会科学が可能であるとすれば、われわれはこの精神過程において共有している相互主観的意味の構造に依拠しなければならないのであり、そしてここにおいて方法論的個人主義は、前述した両者の主観主義と密接に結びつくのである。

 一方これらの論拠において、前述した観察者と当事者の差異は、ここでも両者の見解を著しく分けている。すなわちミーゼスはここから観察者の論理的演繹性をもった説明概念へと無媒介に移るのに対して、ハイエクは当事者のあいまいで多義的な概念から、その中でも感覚的属性(sense attributes)[f :97]の安定した、すなわち相対的に恒常的に用いられている概念から出発すべきであると主張する。そしてこの概念は、「人々の行為を動機づける諸観念」であるとされている。研究者はここから、「様々な組成をもった社会関係の構造を考察する際のありうべき要素の型を識別」し、諸要素の結び付きの意味を系統的に追及することが要求されるが、またハイエクはこの諸要素を「社会構造の要素」とも表現しており、諸個人は社会関係の網の目に過ぎないとする点で、ミーゼスよりも社会構造に対する明確な方法的自覚をもっていた。

 こうしたハイエクの主張からすれば、社会科学における事実が一見客観的に見えようとも、実は通俗的理論によって憶測された主観的要素の構成物に過ぎないのだということが重要である。従って方法論的集団主義がいうように、個人の行動における規則性は客観的に捉えることが困難であるとしてこれを批判するのは、的を外している。ハイエクはこうした規則性を解明すべきだとはいっていないし、また集団の規則性を解明することが不毛であるといってるのでもない。むしろ言いたいのは、われわれはまずもって感覚的属性の安定した当事者の諸観念から理論を「構成」すべきであり、さらに構成された理論は変更・改善すべきだということなのである。そして社会科学が「構成的方法」を用いるべきだというのも、この意味においてである。

 ところでハイエクがこの構成的方法によって関心をもつ対象は、新古典派流の機械論的な世界ではなく、われわれの生存条件を形成するような有機的社会構造であり、それは「諸部分があたかも全体を保持することにその目的があるような動きをする」構造であった。彼はメンガーの一節を引用して、社会科学の解明すべき最も重要な課題を次のように発している。

 

  公共の福祉に役立ち、またその進展にとって最も重要な諸制度は、その創設を目指す共通の意志がなくても生成しうるが、このようなことがどうして可能なのか。 [f:146-7]

 

 これは他ならぬ自生的秩序への問いかけである。つまりそれは第一に、各人の意図せざる結果として生成したものであり、第二に、合目的的諸力が作用して社会秩序を維持するような全体である。ハイエクは構成的方法によって自生的秩序を解明しようとしていたのであり、その場合、対象は全体として観察しうるものではない以上、われわれはこれを精神的再構成によってしか認識しえないということが、この方法の論拠となっているのである。

 以上の議論から、ハイエクの課題は、人々の行為を動機づける感覚的属性の安定した諸観念から出発し、これらの諸観念を構成して自生的秩序なる社会構造を解明すること、とまとめることができよう(*9)。しかし次のような疑問は掘り下げてみる価値がある。すなわち、はたして行為を動機づける観念と感覚的属性の安定した観念というのはうまく重なり合っているのだろうか。ハイエクは、「貨幣」「価格」「利子率」といった行為を動機づける観念と、「国民」「社会」「資本主義」といった社会現象についての観念を区別し、後者は前者から構成される概念であるというが、例えば「貨幣」という用語一つとっても、その意味=感覚的属性が「国民」という用語の意味よりも一義的・恒常的であるということは示し難い。あるいは前述したように、研究者は行為を動機づける観念を、ある特定の社会構造への関心から象らなければならないとすれば、彼はその社会構造を前以て認識していなければならないだろう。またその時、諸観念は、特定の構造によって網をかけられてはじめて感覚的属性が安定しているといえるのであって、当初から安定的だとはいえないだろう。ここには明らかに溝がある。つまりハイエクのいう方法論的個人主義は、感覚的属性の安定した諸観念を認識の出発点におくと言っているのか、それとも記述の順序として諸個人の動機観念を議論の出発点におくと言っているのか、疑問の余地を残すものとなっているのである。

 すでに見たように、ハイエクの方法論は当事者相互の主観的意味構造に依拠しているのであるが、単に意味構造ということであれば、動機観念から出発するべきだということでもないだろう。また彼は後期に至るまで一貫して、社会科学の方法は、物理科学と違って(ポパーとは反対に)「知られたもの」から「知られてないもの」を説明することであると主張しているが、認識的に確実なものから出発するということであれば、これも直接的に動機観念に関わるものでもない。従ってハイエクの強調点は意味構造ないし感覚的属性の安定した観念にあり、実際、動機観念の方は、自生的秩序論が明確になるにつれて取り去られていくことになる。ところで動機観念を強調しないのであれば、方法論において「個人」という用語にこだわる必要はなく、これを新たに「方法論的発生主義(methodological evolutionalism)[21]と呼ぶのが適切かもしれない。方法論的発生主義とは、現象を構成する要素を本源的なものに還元する個別的方法と、現象全体の認識からその構成要素を明らかにする集合的方法を用いて、認識的に直接的で安定した観念から出発して全体を構成していくような方法である。ハイエクが初期において示した方法論は、こうした視点から、方法論的個人主義とは一応区別して評価できるように思われる。

 

6.おわりに

 本稿が限定した範囲は、もとよりハイエクの方法論全体を把握するには、依然として不十分なものであるが、しかし研究状況からみて本稿独自の意義を持つと思われる議論は、以下に他の研究者の解釈と対比させつつ、総括しておこう。そして最後にハイエク方法論の思想的意義について若干の解釈を試み、これをもって本稿の暫定的結語としたい。

 まず、EK論文の性格について言えば、B.コールドウェル[4]はEKにおけるハイエクの転換が意味するものとして、均衡装置の限界に気づいたこと、完全知識から分散した知識の仮定への移行、理論経済学から経済哲学への移行、を挙げているが、これらはどれも不適切である。これに対してわれわれが明らかにしたのは、@ハイエクは静学均衡の限界に初めから気づいていた、A完全知識を仮定したことはない、BEKの中心課題は、理論経済学内部で動学的均衡理論への序説を示すことである、ということである。

 またEK以前のハイエクの立場がミーゼスと同じであるとするハチスンの解釈も適当ではない。なぜなら、ハイエクはミーゼスと会う以前に論理実証主義の洗礼を受けており、彼の景気循環論の方法はミーゼスと違って実証の役割を重視しているからである。さらに、四〇年代の「科学主義と社会の研究」におけるハイエクの方法がミーゼスのそれとあまり違わなかったとする古賀氏の解釈に対して、本稿は以下の点で別の解釈を提出した。@ミーゼスはホモ・アーゲンスの住まう目的の領域を問題にするが、ハイエクはそれと同時に、人間が「ルールに従う動物」であるという側面を問題にする。Aミーゼスは意図的な行為を問題にするが、ハイエクは同時に意図せざる結果としての制度、すなわち自生的秩序を問題にする。B相互主観的意味の構造によって、ミーゼスは観察者の学知的構造に限定したが、ハイエクは当事者の構造から問題を立てる。Cミーゼスは演繹論理の体系を築こうとするのに対して、ハイエクは構成的方法によって理解可能な関係の体系を築こうとする。Dハイエクは知識の分散性、曖昧性、主観性を強調するのに対して、ミーゼスは知識に関する洞察を欠いていた。

 一方、本稿の範囲ではポパーとハイエクの異同についてあまり検討できなかったが、初期における両者の明確な差異を以下に挙げておこう。@ハイエクは自然科学と社会科学の方法を分けるが、ポパーはハイエクの自然科学理解が誤りであるとし、科学はすべて仮説演繹法であるとした。(しかし社会科学におけるポパーは反証主義ではないのだから、ハイエクが反証主義でないということは差異にならない。) Aポパーは生物学などの自然科学が社会科学に与えた影響に注意を払わないのに対して、ハイエクは社会を生物学的有機体とのアナロジーで認識することが自生的秩序の認識にとって重要であると考えていた。Bポパーはゼロ方法によって計量分析を推奨したが、ハイエクはこれに否定的であった。Cポパーは社会科学においても実験が可能であるとしたが、ハイエクはこれに消極的である。

 以上の議論から、外延的には、ハイエクの方法論的営みは、自生的秩序の認識に向けられていたという点でミーゼスやポパーとはめざす方向が違うということが明らかにされたであろう。しかし単なる方向の違いといったことではなく、その思想的意義をさらに積極的に探ろうとするなら、われわれは再び本稿冒頭に掲げたバートリーの公案に連れ戻されることになろう。「われわれは自分達が何を行っているのかを決して知らない」という公案を遡行すれば、(それは行為を全く意識的統御できないというのではもちろんなく)、たとえミーゼスのいうように行為の合理的な意思決定が可能であるにせよ、われわれの知識の不完全性は絶えず行為を取りまいており、それゆえ行為は当初から原作者の理解と統御をこえた性格をもっているということである。ハイエクによれば、人間は、克服しえない無知を背負いつつも、社会において知識が常に分散しているという事態に対処すべく、意図せざる結果として市場を生成し、また同時に未来を完全に予測することはできないという事態に対処すべく、ルールを生成してきた。それゆえ「われわれが何を行っているのか知らない」という場合、それは単に@行為の結果的意義を知らないというだけでなく、A行為動機の多くが社会全体を秩序だてるように形成されていることを知らない、さらにB個人はその根拠をよく知らないルールに従って行動しているのだから、自分が何をしているのかについても十分よく知っているわけではない、という事態を指しているのである。われわれは、個としては無力であるが、集団としては、そこに市場やルールといった自生的相互作用を形成するがゆえに、無知に対処しうる賢明な存在となる。ハイエクの思想的基礎には、このような洞察があるのだろう。

 方法論的に重要なのは、しかし、いかに個人を無知であると規定したとしても、そこにはなおかつ「われわれは何を行っているのか知らない」ということを知りうるような、もう一つ別の知性が存在するということである。また学的探求の場において、合理性や演繹性に依拠する科学的方法の限界・不適切さを指摘するのも、この知性であろう。仮にこのような知性を「無知の知性」と呼ぶなら、ハイエクの方法論的独自性は、この無知の知性を駆使したことにあると言えるのではないだろうか。例えば本稿の各所で言及したシステムとしての市場秩序やルールの導出は、諸個人が無知であるがゆえに、あるいは無知だからこそ、といった仕方で説明がなされている。このような説明が説得力をもつのは、われわれが潜在的に共有しているこの無知の知性にハイエクが訴えているからである。また知識分散への洞察、相互主観的意味の規定なども同様の知性に基づいており、さらにハイエクの方法論的発生主義と構成的方法も、用語の創発特性を無知の知性によって引き出すような方法であると解釈できよう。このように見れば、無知の知性はハイエク独自の方法として根幹にあり、また、今日われわれが新たなグランドセオリーを築く上で、こうした無知の知性をその方法的基礎に据える意義は、決して小さくないように思われるのである。

 

 

  略号は、T~]:ハイエク邦訳全集、a~i:その他のハイエク文献、1~25:それ以外であり、必要に応じてコロンの後に原書頁を記した。a~i,1~25は、参考文献を参照されたい。

(*1)  確かに、@ハイエクの初期の論文はミーゼスの景気循環論を発展させたものであるということ、Aハイエクは論文「経済学と知識」(1937)において、選択の純粋論理から経験科学への経済学の移行を問題にしていること、Bハイエクの論考(1967)とポパーの『推測と反駁』は互いに贈呈されていること、Cハイエクのノーベル賞受賞講演(1974)はポパーを讃え反証可能性を認めていること、等々、こうしたトピックをつなげば、そのように推測されよう。

(*2)  人々の期待の両立性をもって均衡とするハイエクの構想は、知識獲得に関わる経験的内容を含んでおり、従ってトートロジーであるとしても、すでに経験的命題である。また、ハイエクが計算問題を「人間には実行不可能」であると述べる時、市場社会主義者はこれを計画当局の試行錯誤によって克服しうるものと捉えたのであるが、彼はそれによっても克服しえないような人間の無知の本性を強調したという点で、反合理主義の立場をとった。

(*3) 交換媒体をもたない(したがって中立貨幣を前提とした)仮説的なシステムとしての均衡を用いて、貨幣要因による景気循環を説明するというアイディアは、後にハイエクが異時点間均衡理論の開祖と言われるようになった論文「異時点間における価格均衡と貨幣価値の変動」(1925)にすでに与えられている。また『貨幣理論と景気循環』(1929)では、「中立貨幣」という道具主義的な用語によって、ミーゼスの「内的客観的交換価値」という用語を捉え返している。「中立貨幣」について言えば、ハイエクは、ワルラスがニューメレール概念を用いたのも、本質的にはこれと同じであると述べているが、しかしハイエクの場合、それは自然利子率に等しい貨幣利子率を達成するような貨幣量であって、これが達成されている限り、貨幣量の変化が価格水準に及ぼす影響に対しては二次的な重要性しか認めていないという点で、特徴的である[24]。また、後にこの概念は理論的な有効性を疑問視され、ハイエクの理論は新たな発展が望めなくなるといった事情も、ハイエクの転換の背景をなしている。

(*4)  そもそもハイエクにとって従来の均衡分析は、経験的内容を含まないトートロジーであった。この分析は、一人の人間に限って明確な意味をもつのであり、われわれが多くの諸個人の行為を分析しようとする場合、そこには「あらゆる出来事がメンバー全員に即座に知れ渡るような完全市場」[V:45]という半ば全知の仮定が入り込むことになる。

(*5)  競争作用が市場を安定に維持するというだけでは不十分であり、ハイエク自身政策者の立場から、「より大きな経済システムの変化の全体的なパタンに各人の意志を適合させるために必要な、彼の周辺の事実をこえる情報を彼に伝えるという問題がまだ残っている」[V:84] としている。私はさらに、諸個人の平衡感覚といったものを説明に加えるべきだと考えている。

(*6)  ところが「全体」概念に対する見解において、両者は一致していない。ミーゼスは全体論的な歴史主義に抗してこれに理論的地位を与えなかったが、ハイエクは、理論が全体に対してアプリオリであり、「全体は、部分を結合する関係の体系を追及する以外には見えようがない」としている。そうすることによってハイエクは、一方で「全体は構成要素が理解されうる以前に知られている」とする歴史主義の見解を批判しつつ、他方で全体としての自生的秩序を問題にしうる視点を獲得しているのである。[f:125,129]

(*7)  主観主義にはもう一つ、経済学価値論の領域で使われる意味がある。周知のように、限界革命は価値の主観性を強調したが、しかし必要財や生産費などを客観的に定義できるとする点で十分なものではなかった。そこでミーゼスとハイエクはこれを徹底すべく主観主義を主張し、同時に効用を客観的に計量化しようとする当時の新古典派に対して批判の矢を向けたのであった。この領域での両者の差異は、最近、静学的/動学的という区別によってなされている[22]。すなわち、静学的主観主義(ミーゼス)は個人を受動的なフィルターとして理論に組み入れるのに対して、動学的主観主義(ハイエク)は自由で能動的に意志決定する個人を理論に組み入れようとする。本稿でこれを論ずることはできないが、こうした区別は、基本的には前述した観察者と当事者の関係についての両者の捉え方に根差しているといえるだろう。例えばハイエクの主観主義が動学的と呼ばれるのも、ミーゼスと違って、当事者の主観を絶えず参照する仕組みになっているからである。

(*8)  例えば貨幣量の増加が平均して価格を上昇させるというフィッシャーの貨幣数量説は、総需要という全体論的概念に依拠する以上、貨幣量の増加が諸個人に次第に波及する過程で景気循環が生じるということを説明できない。従って経済学において総需要といった概念を使うこと自体、すでに全体論的であり、不毛である[17][25]

(*9)  L・ラハマン[12]は、方法論的個人主義には前向きと後ろ向きの方法があるとして、ハイエクの方法は前者、すなわち「諸個人の計画、つまり目的、手段、障害が全体の中に結びついていて、いわばスクリーンに映し出されているような精神的計画から出発する」のに対して、後者は「現存する状況において、どのような計画の構図が生ずるかを問う」歴史的方法であり、後者が真の意味での理解方法であるとしているが、われわれの理解からすれば、ハイエクは動機を形成する観念から出発すると言っているのであって、両者を区別することはできない。歴史的方法について言えば、ハイエクはそれが発生論的記述による「図式的歴史」として構成されるかぎり、適当なものだとしている。[f:150-1]

 

参考文献

◇ハイエク(邦訳全集以外)

[a]Money Capital & Fluctuations: Early Essays, Routledge & Kegan Paul(RKP), 1984.

[b]The Trend of Economic Thinking', Economica, vol.13, 1933.

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[g]「一九五六年三月七日ニューヨークにおいて、ミーゼス祝賀会に際し、F.A.ハイエクがルードウィヒ・フォン・ミーゼスに寄せた祝辞」/「ハイエク教授とミーゼス教授」M.v.ミーゼス『栄光・孤独・愛』所収。経済論壇 vol.24.no.10. 一九七八年十月。

[h] Studies in Philosophy, Politics and Economics, RKP, 1967.

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◇その他

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